透析治療がなかった時代

2018.01.17

<友達にご共有いただけます>

透析治療と日本の将来➀

透析治療のない一昔前は、腎不全は尿毒症の末、死に至る病気でした。現在でも腎臓病は怖い病気ではありますが、食事療法や透析治療によって病気の進行を大幅に遅らせることができます。

元々はスコットランドの科学者、トーマス・グラハムが1854年に、特定の物質を透過する半透膜(透析膜)を発見し、この半透膜の技術が医学に役立つのではないかと推測されたのが発端となり、それから半世紀以上かかり、アメリカ人のアベルという方が1914年、透析膜を使用して世界最古の人工腎臓を開発し、動物実験を実施しましたが、当時は中々うまくいかなかったそうです。

 そんな中、世界は第二次世界大戦が勃発します。

 ナチス占領下で、爆撃によるクラッシュ症候群により急性腎不全を患った多くの兵士を救うためオランダ人のコルフという方がローリング・ドラム式ダイアライザーを開発しました。

 クラッシュ症候群とは、がれきの下敷きなどで筋肉が長時間圧迫されることにより、壊死(えし)した筋肉細胞から血液中に大量のカリウムやミオグロビンなどが漏れ出し、それが尿細管に詰まって急性腎不全を起こす状態をいいます。

 特徴的なのは、圧迫から解放された直後は意識があるため軽症とみなされがちですが、時間がたつにつれ重篤な状態になり、死に至る場合が少なくないのです。

 クラッシュ症候群は戦争だけでなく、災害や事故などでも起こります。1995年の阪神・淡路大震災や2005年の兵庫県尼崎市におけるJR福知山線脱線事故で、多数の犠牲者を出したのはこのクラッシュ症候群です。

 透析技術がさらに進歩を遂げたのは、1950年に起きた朝鮮戦争がきっかけです。米国が兵士のクラッシュ症候群に伴う急性腎不全の死亡率を下げようと腐心した結果、現在に通じる透析装置が開発され、兵士の死亡率を9割から5割に低下したといいます。この画期的な業績により人工透析は国際的に注目されるようになり、企業による透析装置の開発も本格化し、1955年頃から急性腎不全の治療に使われるようになっていきました。

 日本での透析療法の歴史は、朝鮮戦争前後の透析技術の発達によってもたらされます。戦場から近い日本に透析装置と米軍兵士が運ばれて治療が行われましたが、日本人医師も協力することで技術を習得してきました。こうした時代を経て、日本人の急性腎不全の患者に対しても治療が行われるようになりました。

透析治療と日本の将来②へつづく

メディカルフードサービス

<友達にご共有いただけます>